経営指導に限ったことではないが、人を指導するということは、一に根気、二に根気だ。

知識をしゃべればいいと勘違いしている者があるが、それは、指導ではない。

相手の頭できちんと理解できて、行動できるようになるまで、しっかりと根気よく、
一年でも、二年でも、時には10年でも、できるまで辛抱強く待つ心がなければ、指導はできない。

「怒る」と「叱る」は違う

短気になって怒るなど、もってのほか。
叱るならいいが、怒るというのは己の指導力の低さを表す。

叱るというのは、相手のことや将来を真剣に考え、相手を思いやる心から生まれるもの。
怒るというのは、自分に溜まったものを発散しているに過ぎない。

これは少し説明が必要かもしれない。

人間誰でも生きていれば、思い通りに行かずに、むしゃくしゃすることがある。

人が自分の思い通りに動かずイライラしている者もいれば、自分自身を思い通りに動かすことができずにイライラし、むしゃくしゃしている者もいる。

そのイライラや、むしゃくしゃした気持ちを持て余し、人に怒りをぶつけて、指導だとか、愛のムチだと言って正当化している者が世の中には沢山いる。

それが友達同士の間柄なら単に喧嘩ということになるだろうが、指導者と指導される立場で行われた場合、それは非常に厄介な問題になる。

怒られたほうは指導を受けたと勘違いし、怒ったほうは精一杯指導したと勘違いしている。

その両者間では、そのような勘違いや欺瞞が通用しても、傍から見たら「あれは単なる、いじめじゃないか」とこうなる。

しかし、その二者間の結びつきが強いほど、周囲の意見を聞き入れない。
それで、怒りに任せた指導が、愛があるゆえに叱っているのだと思い込みにすり替わり、欺瞞から抜け出せなくなる。

言葉の意味や定義を明確にする

なぜこのようなことが起こるのかというと、いろいろな言葉の意味や定義を曖昧にして、わかったつもりで指導しているからだ。

「わかる」ことと、「わかったつもり」の間には大きな隔たりがある。

経営指導を行う場合、いや経営に限らずとも指導ということに関わる者には、しっかり自分が使う言葉の定義や、行っていることの定義を確認してほしい。

「怒る」と「叱る」この両者の定義は非常に曖昧であるがゆえに勘違いや、欺瞞に陥りやすいのだ。

そのように考えていくと、言葉や行動を正しく定義できている人間というのはどれ程いるのだろうか。

極めて少ないのが現実である。
だからこそ、指導には根気が必要なのである。

まずは、指導者自身が勘違いや欺瞞に気が付き、自分の使っている言葉や行動の定義づけを行い、相手の勘違いや欺瞞に気が付いても、感情的に怒ることなく、それが是正されるように道筋をつけ、じっくりと時間をかけ丁寧に導くことが肝心なのである。

自分が迷っているのに、道案内などできない

要は、自分が迷っているのに、道案内などできないということである。

まず、自分自身が現代日本の資本主義経済社会の迷路から抜け出して、それから他者を迷路から抜け出す手助けをするのである。

自分が迷路に迷っているうちは、迷子同士が助け合っているようなもの、おぼつかないのは当然だ。

自分がしっかり迷路から抜け出し、迷っているものを導くのが経営指導において重要な点だ。

自分自身が迷い、そこから抜け出した経験があれば、迷っている人間を見ても腹が立たないものだ。
そこを腹を立てるということは、まだ迷っているということ。

まず、自分が抜け出す必要がある。焦りは禁物。(この項目は以上)