目の前の人間、身近な人間が、自分のことを誤解しているなと感じたら、それは早めに正すのがよい。
あらぬ誤解からでも争いや、もめごとは生まれるから、それは早めに解消するに越したことはない。
しかし、世間の全ての人に誤解なく自分を知ってもらうというのは無理なもの、その無理を押し通して、すべての人の誤解を正そうとすれば何も行動できなくなってしまう。
経営指導などというものは、多くの人間には無縁のもの、無縁の人間のうわさ話まで気にしていたら肝心なことができなくなってしまう。
本当に根も葉もない噂ならすぐに消えていくからいちいち気にすることはない。
それでも人の目が気になるとき
それでも、やっぱり人の目が気になるというとき、自意識過剰になっていないか確認してみるとよい。
人は大体自分のことで頭がいっぱいなものだ。
やれ腹がすいた、寒いやら暑いやら、お金のことや、家族のことやらペットのことまで、自分の身内に関することで頭がいっぱいだ。
他人のことなど、それほど気には留めていないもの。
しかし、一旦、自意識過剰という轍にはまり込むと、自分はどう見られているのだろうということばかりに気を取られるようになる。
こんな服じゃ笑われないかとか、こんな髪型で大丈夫かとか、こんなしゃべり方でおかしくないかとか、自分がいつも注目されているような気がして仕方なくなってくる。
それは、ほとんどの場合、幻想にすぎない。
自分が注目されていると勝手に思っているだけで、みんな本当は自分のことで精いっぱいで、人のことはそれほど気にしていないものだ。
人は自分が見たいように見ているだけ
大体の人間は、他人のことなどちゃんと見ていないのだから、誤解をされないほうがおかしい。
みんな自分の尺度で、じぶんなりの色眼鏡をかけて、自分が見たいように見ているだけなのだ。
例えば人をかわいそうという見方でしか見ない人がいるとする。
どんな人間でも可哀そうにみる癖がついているんだから、その人の前では、どんな人間も可哀そうな人間になってしまう。
だから、自分は可哀そうな人間なんかじゃないと主張するだけ無駄なのだ。
そうかと思えば、人を見れば盗人だと決めてかかるような人間もいる。
会う人、会う人を疑ってかかるうわけだから、疑われても無理もない。
しかし、要は自分が疑われるようなことをしなやきゃ、それでいい。
そんな人間にまで、疑われないように生きようなんて無理なことだ。
「どう見られるか」ではなく「どうあるか」だけを心掛けていればいい
無理をしていれば、だんだん苦しくなってくるから、どこかで開き直って楽になる必要がある。
それは、「どう見られるか」にこだわるんじゃなくて「どうあるか」だけを心掛けていればいいってことだ。
いくら盗人呼ばわりされても、本当になにも盗んでなきゃ堂々としていればいいんだ。
それが誤解なら、誤解は解ける。
ただ、もし人に誤解されて、なかなか誤解が解けないときは、こう思ったほうがいい。
自分は今まで、疑いの目で人を見てきたのではないか、という自分のものの見方の癖に気がつく時なのではないかと。
結局、自分がしてきたようにようにされるというのが、この世の学び方だ。
だから、人に誤解されることを恐れるんじゃなくて「自分が誤解していることに気がつくために行動しているんだ」くらいに思えたら、取り越し苦労なんてものはなくなるし、自意識過剰からも解放される。
自分が誤解されている以上には、誤解されないのだから、自分の誤解を解くことをすればいい。
自分の誤解というのは、自分のものの見方の癖、自分独自の尺度や、色眼鏡に気がつくということだ。
つまり、他人から誤解されることを恐れるのではなくて、自分が誤解していることを正しく解釈するために、いろいろと行動したり、いろんな人と話したりする必要があるということだ。
相手は鏡
いろいろ行動すると、ただ思っていたのとは違う結果が出るものだ。
そこに自分の誤解が隠されていたりする。
いろいろな人に会うと、いろいろなことを感じると思う。
そのいろいろ感じることは、自分自身に対することなのだ。
相手を鏡にして、自分自身を見ているに過ぎない。
これも、自分の誤解を正す良い機会になる。
だから、恐れるべきは、人に誤解されることではなくて、自分自身の誤解なのだ。
誤解したり、誤解されたりするというのは、互いを鏡に、己を映し合いながら、少しずつ少しずつ正解に近づいていくために必要なことなのだ。
本当に素直な心を取り戻すまでの修行みたいなものだ。
そうやって個人が成長し、人間同士の関係性に変化が起きれば、それに伴い人間社会が成熟していくことになる。
そこに喜びを見いだせれば、人と関わりながら働くっていうのは、実に有意義な活動なんだって気がつけるわけだ。
だから、何も怖がることはないんだよ。
経営者というのは、そういう皆の修行の場を管理する責任があるわけだし、そうすること自体が経営者の学びなんだ。
経営指導を行うものは、そのようなことを理解した上で、人と謙虚に関わっていく必要性がある。
その関わり方を学ばせてもらっているという謙虚な姿勢が、経営指導を行うものを真に強くすることになる。
そこに事業の大小は関係ない。わかるかな。(この項目は以上)